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第4話 湯気でかき消すマイブラザー

2022年10月19日

僕が玄関のドアを閉めるなり、いつになく上機嫌な母さんの声が聞こえてきた。

「おかえりー。今日おにいちゃん帰ってきてるよ」

「え! なんで」

「おー、久しぶりー」

タイミングが良(悪)すぎる。身体からホカホカ湯気を漂わせながら、身長184cmの僕の兄、真人(まさと)が出てきた。

「高校生活はどうよ」

「……なんでいるの」

「うわっひど」

「そっちだって新学期始まったばっかじゃないの」

「ちょっと本とか荷物取りにきただけ、まあ今回は2、3日くらいはいるつもりだけど」

「あっそ」

「ちょ、かーちゃーん、マイブラザーが冷たい」

「あはは、新しい生活が始まったばっかで疲れてるんだわ」

台所から母さんの返事が返ってくる。そうだよ、こっちは何かもう色々あり過ぎてクタクタなんだ、勘弁してくれ。

ふわっと美味しそうな香りが、僕の好きな香りが漂ってきた。今日の晩ごはんは……生姜焼きみたいだ。真人(まさと)の好物だ。

「チラシいっぱいだね。あれか、部活動の勧誘か」

真人(まさと)が興味深そうに覗いてくる。……はやく下着をはいて欲しい。

「また部活入らないの?」

「うるさいな」

僕は裸の兄を押しのけて、2階の部屋へ向かった。今日は、イヤな日だ。疲れてしまった。

真人(まさと)は僕の五つ上。大学3年生だ。真野真人(まさと)。まっすぐで優秀で気持ちのいい性格で、周りから好かれる。割と筋肉質でがっしりしていて、身長はまだ伸びているらしい。父さんも母さんもどちらかというと背は低い方なのに、誰の血だろう。大学ではなんとか工学を勉強していて、ゼミのこれまた優秀な仲間たちと一緒に教授について世界を回ったりしているらしい。よく知らないけど。大学3年生といったら就活で忙しくなる時期なのだろうが、兄はこのまま大学院に進むようだし、研究で忙しく正月や盆休みでもなかなか家に顔を出せないような状況だ。

実の兄の素晴らしい生き様、人となりを見せつけられながら育ったせいか、平々凡々の僕の根底には兄に対する卑屈な気持ちが丁寧に、美しく敷かれている。その自覚はある。でも、まあ僕は僕だしと思って、その卑屈な感情の上にオーソドックスで当たり障りないスポンジケーキのようなものを積み上げて、僕なりに飾り付けができていると思っている。思っているけど、少しだけ、その飾り付けがところどころバランスを崩してスポンジケーキごと倒れそうになるのを、最近感じる時がある。まさに今日はそんな日なのだ。

「ちょっとー、お父さん帰り遅くなるみたいだから先食べちゃおうー」

電気もつけないで暗闇の中ぼーっとしていると、下から母さんの張り上げる声が聞こえた。正直疲れすぎていて、生姜のいい香りがしてきても食欲がわかない。

ふと、指先に痛みを感じる。ささくれができている。無理やり剝いたら血が出てきそうなやつだ。小さいころ、母さんによく言われた。ささくれができるのは親の言うことを聞かないからだよって。僕は小さいながら、何て都合のいいことを言うんだろうと冷ややかな目で母親を見ていたと思う。とは言いつつも、ささくれを見つけるたびその言葉を思い出して、少しムッとしてしまうのだった。そして、なるべく早くそれを剥いてしまう。痛くても血が出ても、だ。

僕はタラタラ階段を降り、母さんと真人(まさと)が楽しく談笑する中もくもくと生姜焼きを口の中にかき入れ、そのまま風呂場へ直行した。

真人(まさと)は、小学校から高校までずっと野球をやっていた。ほぼ毎日のようにクタクタになるまで部活動にあけくれ、泥だらけで帰ってきてそのまま風呂場に直行するので、脱衣所が砂だらけになるのだ。僕はそれが嫌で、真人(まさと)が帰ってくるまでに自分で風呂の準備をして、熱めの一番風呂にゆっくり浸かるのが日課だった。家にいる時間の中で、一番心安らぐのが風呂の時間かもしれなかった。換気扇はなるべくつけない。湯気がもくもくと立ち込める中、香りを嗅ぐのが目的かと思うくらい、一生懸命牛乳石鹸を泡立てる。まるで禊ぎのように湯舟の中にざぱんと身を投げると、色んなことがどうでもよくなってくる。僕にとってとても大切な時間だ。でも、今日はいつもと少し違うようだ。一番風呂じゃないこともあるかもしれないが、僕の中で引っかかっている何かが、すっかりきれいに流れていってくれない感じがする。さっき無理やり剝いたささくれがしみて痛い。

その晩、僕は夢を見た。前田がサッカー部を引退した日の夢だった。引退試合の後の帰り道、前田に何かプレゼントの一つでも渡すべきだったのに、僕は何も用意がなくて、それなのに何故か前田からプレゼントを渡されたのだ。僕は夢の中で、このタイミングで何故僕が前田からプレゼントなんてもらうのか、そしてそのプレゼントの中身を見て訳がわからなくって大変混乱した。僕にそれを渡すと、前田はどんどん遠くへ行ってしまった。とても寂しくて悲しい夢だった。そして、情けない気持ちでいっぱいになって、目が覚めた。